失恋からの不眠→自然な眠りを取り戻すまで
幸井俊高執筆・・・薬石花房 幸福薬局 の症例をもとにした漢方ストーリー
ある若い女性が不眠の悩みを漢方で解決する過程を物語風に描いています。症例は筆者の経験をもとにしていますが、登場人物は実在の人物とは関係ありません。
■■不眠症で死ぬことはないというけれど■■
秋分の日をすぎると、日の出の時間もすっかり遅い。夏至のころには4時くらいから明るくなってきていた空だが、今ではそんな時間、まだまだ真っ暗なままである。
妙子の自宅は副都心にほど近い、わりと静かな住宅地にある。1キロほど北に、都心から郊外へとつながる高速道路があるが、ふだんは車の騒音も聞こえない。それが秋になると、空気が澄んでくるせいか、夜中から明け方にかけて、ときおり車の爆音が聞こえてくる。
時計をみると、午前4時20分。いつもどおりバイクのエンジン音が短い距離で止まりながら近づいてきて、妙子の家にも朝刊を投函し、去っていく。
そのころになって、ようやく妙子はうとうとし始める。
そう、妙子は不眠症である。睡眠薬を飲まないと、どんなに疲れていても明け方まで眠りにつけない。
大学を卒業して以来、出版や編集の仕事をしている。この業界のご多分に漏れず、勤務時間は不規則で、夜おそくまで作業に追われることも多い。
それでも大手の出版社なら、きっちり土日がお休みだけど、妙子の勤める出版社ではそういうわけにもいかず、休日に出勤することも少なくない。
不眠症だと疲れがとれず、このように働きづめだと疲労がたまる。疲れきったらすぐ寝つけてもいいのに、逆に夜になると目がさえてしまう。
不眠症で死ぬことはないというけれど、からだも心もくたくたである。心療内科に行って睡眠薬を処方してもらったのは、2年ほど前である。
■■原因は、心へのストレス■■
原因は、よくわかっている。その半年ほど前に、彼氏にふられたのだ。
5年近く付き合ってきたのに、彼の地方都市への転勤で、歯車が狂い始めた。
――遠距離恋愛だけど、大丈夫だわ。
そんな幻想は、彼からの突然の別れのメールで砕け散った。
「こんな大事な話、メールで一方的に言ってくることないじゃないの」
一度は電話をしてみたものの、「ふん、ふん」「でもなあ」という彼の気のない返事にあきらめを感じ、それっきり、別れた。
別離、破局、失恋という情熱的な別れではなく、彼からの一方的な通達であった。
どこにでも落ちているような話だが、そのときの妙子にとって、それは、それまで順調に走っていた車のタイヤをふたつ、急に外されたようなものだった。自分自身の制御の仕方がわからなくなり、まっすぐに走れなくなった。すべてに自信をなくしてしまった。
いまから思えば、幼いふたりの関係だった。しかし、それ以来、夜、眠れなくなった。
あれから半年たち、彼への気持ちが整理できたあとも、体調は戻らなかった。
不眠にいいといわれることは、あれもこれも試した。カモミールのハーブティを寝る前に飲んだ。ラベンダーのエッセンシャルオイルを枕もとにたらした。もちろん、ひつじの数も一から数えた。
効果はなかった。
「そういうのって、漢方で『心身一如(しんしんいちにょ)』 っていうのよ」
雑談中に、友だちの弘美が急にそんなことを言い出した。彼女は七転八倒の生理痛を、漢方薬で改善していた。おかげで、明るい彼女はますます元気になっている。そしてそれ以来、漢方やら東洋思想やらにちょっとはまっている。
「人間のからだって不思議なもので、からだ全体がお互いに影響しながら、そしてバランスをとりながら、機能しているのよ。それは、心とからだでも同じ。お互いに影響しあうのよ。だから、彼氏と別れたショックが体調に影響して、そのままになっちゃっているのよね、きっと」
能天気な彼女から、こんな話を聞かされるとは思ってもいなかった。
原因は自分でもよくわかっているし、弘美の言う「心身一如」もなんとなくわかる。でも、眠れないのはつらい。疲れがたまる一方だし、仕事への集中力や気力も衰えそうである。
――睡眠薬を飲んでみようかな。
診療所へ行くと、数分間ちょちょっと問診を受けただけで、簡単に睡眠薬が処方された。
睡眠薬は、さすがによく効いた 。飲めば、眠れるようになった。毎日6、7時間は睡眠できる。おかげで、疲れはとれてきたように思う。
睡眠薬って、人間の精神をあやつる、ちょっと神秘的な存在。テレビの推理ドラマにも、よく出てくる。こんな小さな白い錠剤で、人が簡単に眠りにつくなんて、すごい。それに、薄命の美少女のイメージもあり、ちょっとすてき。でも、彼にふられたあと、やけ食いして太りぎみのわたしには、薄命の美少女のイメージが似合わない。
そして毎日飲むうちに、こんなことをずっと続けていてもいいのか、と疑問を感じるようになってきた。
■■根本対策は、心身バランスの回復で■■
実際、睡眠薬に頼って眠りにつくようになって数カ月、この薬は、すでにくせになっていた。なんとなく薬なしでも眠れそうな夜でも、睡眠薬を飲むのが習慣になっていた。
睡眠薬に頼りたくない気持ちはあったので、翌日が休みの日に薬を飲まないでがんばってみることもあったが、目はさえるばかりでぜんぜん眠れず、結局夜中に薬を飲んだ。
一度、診療所の先生に相談してみたところ、
「眠れないのが悩みでしょ。この薬で眠れるようになるんだから、いいじゃない」
と言われた。たしかにそうだが、ちょっとちがうと感じた。そんなことを真顔で言う先生とのあいだに、距離を感じた。
そんなとき、弘美の言っていたことを思い出した。
――漢方の「心身一如」かぁ。
試しに漢方を飲んでみることにした。ネットで調べて、不眠症にいいという柴胡加竜骨牡蛎湯という処方の顆粒を取り寄せた。箱を開けると、漢方、っていう感じのにおいがした。
1カ月くらい、飲んでみた。ちょっとは効いたような気がしたが、依然として睡眠薬は必要だった。
――自分で処方を考えたからかもしれない。
本格的な漢方薬局で相談してみることにした。
漢方の先生は、夢はよくみるか、どういう夢をみるか、寝汗はかくか、寝つけなくていらいらはしないか、など、診療所などでは聞かれたこともないことも、たくさん聞いてきた。カウンセリングは、20分くらいかかった。
先生は、いろいろとメモをとったあと、少し考えてからわたしのほうを向いて、話した。
「あなたの場合は、思い悩みすぎたことが、激しい感情の起伏につながり、それが臓腑のバランスを乱してしまったみたいです 。感情の起伏自体は自然なことであり、ふつうは一晩寝れば治ることもあるでしょう。いろんなことがあっても、人間のからだは自分でバランスを調えることができるのです」
なるほど、漢方って人間味があるものなんだ。
「ところが、感情のゆれが激しいと、自分で調節できる範囲を超えてバランスが失調し、そのままになってしまうことがあります。これがあなたの場合です」
たしかに、彼との別れは強烈にわたしの体調に影響を与えたわ。
「失恋などで思い悩み、大きなショックを受けるのは、人間として当然。心配することはありません。いまのような場合は、漢方薬で少し、からだをいたわってあげればいいでしょう。そうすれば乱れたバランスも少しずつ整ってくると思います。そのうち、自然に眠れるようになりますよ」
漢方薬は、思い悩みすぎてバランスをくずした部分を調整(漢方道の必殺技④)する働きのある処方がいいとのことで、人参や甘草が調合されたものだった。
さっそく漢方薬を煎じて朝晩に飲みはじめた。初めのころは、飲んですぐに眠くなることもなかった 。現在診療所で処方されている睡眠薬は併用するようにと言われていたので、寝る前には睡眠薬を飲んで寝た。
ある日、大学時代の友だち何人かと久しぶりに食事をした。楽しかった。そのあと帰宅して、ああ楽しかった、とベッドに横になった。その日はぐっすりと眠れた。
翌朝、起きて気づいたが、前の夜は睡眠薬を飲むのを忘れていた。すごく、うれしかった。
――なるほど、これが「自然な眠り」だったわね。
自信がついてきた。睡眠薬がまったく必要なくなったのは、それから半年ほどしてからである。新聞配達のバイクの音を聞いてから寝ることも、もうない。
(幸井俊高執筆 「VOCE」掲載記事をもとにしています)
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